サレジオの器

ーある日、美のタカラモノと出会ったー 

9.波乱浮上

 それからしばらく時がたった。

僕はすでに実家を出ていて、琴とひそかに二人で暮らし始めていた。琴がまだ妊娠2か月目で不安だから、実家に近い場所がいいとのことで、蒲田に近いとある駅前のこじんまりとした安いアパートで暮らすことにした。駅前と言っても繁華街を抜けたところの2,3分歩いたところにあったのだが・・・

決して贅沢な暮らしはできなかったけど、幸せだった。何気ない日常の幸せというものなのだろうか・・・今までの自分とはうって変わって質素で素朴で何にもない人生だったけど・・・決して華やかなエリートの世界でもなんでもなく小さなネジ工場の生産管理の仕事だったけど・・・でも、そんな自分を信頼してくれている社長や自分を支えてくれてる琴がいれば他に何もいらなかった。それ以外は何もいらない・・・そう思えるような幸福感は今まで感じたこともなく、生まれて初めてのことだった。

「形見くん、もう仕事行く時間だよ」

僕はちょうど琴が作ってくれたご飯と目玉焼きの朝食を食べ終わってネクタイを調整しているところだった。

「うん・・・いま行くよ。」

「ほら・・・形見くん、急いで。」

琴が僕に仕事用の黒い鞄を持たせてくれた。

「ありがとう。」

僕が慌てて革靴を履きながらお礼を言って鞄を受け取ると

「ほら・・・パパに行ってきますは?」

琴はお腹を撫でながらそういった。

「朝から恥ずかしいだろ。」

僕は照れながらそういった。

「いいじゃない・・・もうすぐ生まれてくるんだから・・・」

「そりゃそうだけど朝っぱっからはちょっとさ・・・」

僕は面倒くさそうにそう言うと

「あ~せっかくパパに名前つけてもうおうかと思ってたのにねー。」

琴はパパをからかうように妊娠二か月目のお腹の中の我が子に向かってそういった。

「なんだよ・・・二人そろって・・・もう男の子の方の名前はそっちが決めたっていったじゃないか」

この前の晩の夕食を食べている時に二人で子供の名前をどうしようかと、あれやこれやと考えていたのだが、結局修一は優柔不断で決められなくて琴が男の子の名前だけ思いついたのだった。

「大誠はどう?」

「大誠か・・・かっこいいな・・・」

僕がそっけない感想を言うと

「かっこいいとかそんな単純な理由じゃなくてさ…」

彼女は少し不満げだった。

 何でも、琴は僕のように誠実で真面目で優しい男の子になってほしいと思ってひとりでひそかに考えていた名前だそうだ。

「どう・・・素敵でしょ?」

「うん・・・とっても」

琴は嬉しそうだった。

「じゃあ・・・女の子の名前はパパの宿題ね・・・」

そう言って女の子の名前はパパ担当になってしまったのだった。

そんなことを思い出していたら

「ほら・・・何ぼーっとしてんの・・・形見君、遅刻しちゃうよ。」

彼女にそう言われてふと我に返った。

「うん・・・行ってきます。」

僕がアパートのドアを開けて外に出かかろうとしたときに

「あ・・・ごめん・・・そういえば言い忘れてた。」

彼女が急に止めてきたので僕は慌てて振り返った。遅刻しそうだっていったのは琴の方なのに・・・

「何・・・?」

「あのさ・・・昨日の夜、修一がまだ帰る前にお父さんから電話があってさ・・・それで何か修一に今日朝一に話したいことがあるって。」

「社長が・・・?」

「そう」

一体何の話だろう?と思った。というのもいつもは会社で話があるときには社長は必ずといっていいほど直接自分を会議室に呼び出すことがほとんどだったからだ。なぜ、自分にではなく娘に連絡したのだろうか?

ともかく遅刻しそうだったので僕はまた慌てて外に出て駅へ向かうことにした。

駅まで向かう途中に何やら胸騒ぎがした。雲がいつもよりくもっていて気分も滅入るような感じだった。

「修一君、ちょっと・・・」

会社に着くなり社長に呼び止められてデスクに座る前に会議室の方へ呼ばれた。

「ちょっと話があってね・・・まあ、琴から聞いているかもしれないが・・・」

さっき琴から聞いていたので、心の準備はある程度はできていたが、それでも何やら緊張感が走った。

水川静社長は会議室の窓辺に立って外の様子をしばらく眺めていた。窓の外からは工場現場が見えてそこを行きかう作業員の人たちの姿が見えた。朝一の仕事の準備に取り掛かるために毎朝この時間帯は大忙しなのだった。

「あまり・・・いい天気じゃないな・・・」

社長はため息をつきたいとばかりにそうぼそっと窓の外に向かって独り言のようにつぶやいた。

「修一君は・・・真面目で誠実で・・・仕事も熱心だし・・・それにお父さんに似て本当に人柄がいい。今どき珍しいくらいだよ。」

社長は窓の外を向きながら話し始めた。

僕は社長の言いたいことの要点がまだつかめてなかった。

「それに・・・頭もいいし物覚えもいい・・・」

社長はさらに続けてそういった。

「本当に・・・琴と幸せになってほしい・・・そう思ってた。」

 何やら深い意味があるともとれる言い方だったので、さすがに鈍い修一でも少しだけピンときた。

「あの・・・それはどういう意味でしょうか?」

僕は恐るおそるそう聞いた。

「はー」

社長は一瞬ため息をついたが、すぐに続けて話し出した。

「君の仕事のミスの件でね・・・昨夜・・・事故があった。」

衝撃の言葉だった・・・

事故・・・

久しぶりの感覚だった・・・

それはそう・・・あの野間証券の時以来の・・・

「事故って・・・それは・・・?」

僕はとっさに身を乗り出しながらそう聞いた。

「昨夜・・・作業員の近藤くんが機械に手を挟まれて人差し指を失った。見事な残酷なくらいぱっくりとね・・・幸い命に別状はなかったからよいとして・・・これは、修一君・・・君の生産スケジュールの管理ミスで起きたことなんだ。」

 修一はショックで話があまり耳に入ってこなかったが、どうやら事実のようだった。社長の話によれば、修一が社長や工場長に確認せずに顧客の要望を丸のみして勝手に生産計画を作ってしまい、それが生産ラインをパンクさせてしまったようだった。

「これは・・・君だけのせいではないけどね・・・でも、一度僕か亀山くんに確認してもらいたかったな・・・」

 精一杯フォローするつもりで社長はそう言ってきたが、すでに修一の心は動揺を隠しきれなかった。

「この時期は顧客からの注文が殺到するからね・・・よくあることだから僕もミスに気付かなかったのもあるんだけど。」

社長は顧客からの依頼で、新規ネジの開発と受注および生産体制の確保の計画を検討中だったため、頻繁に会議に出るために外出していたので修一のミスに気付いたときにはもう手遅れだったようだった。それに、亀山工場長も社長に同行していて現場を離れることが多かったため、修一と連絡を取り合っている時間があまりなかった。

「まあ・・・これは君だけの責任ではないけど・・・でも、それだけ大事なことなのだから一度僕か工場長に確認してもらいたかった。」

 社長は残念そうに下を向いてそういった。

「あの・・・ほんと・・・・本当に申し訳ございません!」

僕はどうしたらいいのか分からず下を向いて精一杯謝罪した。

「まあまあ・・頭をあげて」

 今までずっと窓の向こう側を向いていた社長がいつの間にかこちらに顔を向けてそういった。そう一言言うと、社長は煙草に火をつけて会議室の窓を開けて外に向けて一服し出した。彼は一向にこっちと目を合わせる気配もなくそのまま煙草をずっとふかしながら工場現場の方を眺めているようだった。その様子を見ながら社長とのここ二年の出来事を修一はとっさに思い出し始めた。思えば、社長に会議室に呼び出されたことは一度や二度ではなかったことを思い出した。最初の頃は仕事にまだ慣れてないからということでミスも多めに見てくれていたが、次第に1年を過ぎたあたりから会議室に頻繁に呼ばれるようになったのだった。それの大半が修一のミスによる事故が原因だった。生産管理という仕事の性質上、どうしても数字を扱うものなのでケアレスミスが目立つようだった。ある時は、材料の種類や数量の誤発注によりその日の生産ラインに影響が出てしまったり、ひどい時は日付まで間違えてしまったりして、その日の生産工程そのものをストップせざるを得なくなり丸一日穴をあけてしまうこともあった。そのたびに社長からは厳しく怒られたが、社長は修一には期待していたので最終的にはいつも大目に見るのであった。たとえ大型受注案件で大赤字が出た時でも修一をクビにしようなんてことは考えなかった。そのたびに社長は顧客に頭を下げに行って修一をそこまで叱責することはなかった。しかし、さすがにこうもミスが絶え間なく続くとなると、社長は段々と修一のことを信用できなくなっていたようだったから父立彦に何度か相談したそうだが、すかさず父の立彦が社長に頭を下げに行ったそうだ。それで、知り合いからの必死の頼みとあっては断れるはずもなく再び社長は修一を真剣に面倒みると決めていたようだった。しかし、今回の一件でその信頼もいよいよ崩れてしまったようだった。

「本当はね・・・もっと前から話そうかと思ってたんだけどさ・・・お父さんのこともあるし・・・それに僕は君の人柄が好きだしね。そして、娘の琴のこともあるし・・・絶対に君を立派なパートナーに育て上げるつもりだった。」

 本当に社長の信頼を裏切ってしまったようだった。

「だから・・・残念なのは僕の方なんだよ。」

そう言うと彼は眼鏡を取って涙を指でかいつまんで拭っているようだった。そして、いつの間にか吸い終わった煙草を灰皿に押し入れた。

「あの・・・パートナーでも後継者でも何でもなくてもいいですから・・・会社においてくれるだけでいいですから!子供が生まれたばかりなんです!彼女もとっても喜んでいて・・・だから・・・お願いします!」

修一はいつにもまして真剣にそして必死に頭を下げて懇願した。

「修一君・・・頭あげて・・・もうね、決めたことなんだ。一度こういう大事故が起きたから君と作業員との信頼関係は崩れてしまったしね・・・それに、ミスが連発ばかりしたらこの先会社が赤字で倒産しかねないリスクもある。」

 社長はそう念を押すかのように僕に説得して言い聞かせた。

実際に後から聞いた話だが、水川ネジは今でこそ順調に業績が回復に向かってはいたが、一時的に倒産の危機に陥ったことがあるそうだ。そして、その矢先にこの事故が起きた。

「私は、社員全員の命を預かってるんだ。そう簡単にはいかない・・・」

 社長はシビアにそう言い放った。

「そんな・・・お願いします!」

僕はもう一度頭を下げた・・・

「僕だって辛いんだよ・・・もう出て行ってくれないか?」

彼はいよいよたまりかねたのか少しだけ怒鳴るようにそういった。

「あの・・・琴との結婚は・・・子供はどうすればいいんですか?」

社長はまた大きなため息をついた。

「それについては・・・君たち二人で話し合えばいい。あの子の意思を尊重するよ。でも、結婚は無理ならまだ間に合ううちに中絶するのがいいかとは思う。でも、あの子はそれを望まないだろう。」

「そんな・・・」

僕は唖然としてその場で棒立ちに立ち尽くしてしまった。頭の中は真っ白で何も考えられなくなっていた。あの・・・野間証券の時の悪夢がまた蘇ってきたようだった。なんで・・・自分だけこんな目に遭うのだ?武村や岡田や穂乃花は・・・周りはみんな人生が順調でうまくいっているのに・・・やっとの思いで幸せを手に入れたと思っていたのに・・・神様は意地悪だと心底思った。

「社長・・・病院に行く準備が整いました。車を表に回しましたので・・・」

作業員の一人が会議室に入ってきてそういった。

「分かった・・・すぐに行く」

水川社長はそう軽く返事した。

「修一君・・・これから近藤君の病院に見舞いに行かなきゃいけないんだ。時間がないからこれで失礼するよ。これからのことは二人で話し合って・・・僕は娘には恨まれるようなことしたかもしれないけど・・・経営者としては当然の判断をしたまでさ・・・だから、二人でゆっくり時間をかけて結論を出しください。あの子にはこっちから話しておこうか?」

 社長はそう聞いてきた。

「いえ・・・僕が話します。」

抜け殻のようになった僕はそう答えた。