16.巨匠との出会い【後編】
あたりは静まりかえっていた。
ひたすら歩いてきたくねくね道を抜けるとそこは少しだけ広い崖の上の峠のようなところだった。すでに時間はとっくに夕刻を過ぎていたのであたりはあまり見えなかったが、その峠の上に構えるかのように立っていた古い木造づくりの日本式の住居からは、かすかな明かりが見えた。修一はあそこに違いないと思ったが、ここにきて急に身構えてしまった。さきほどまで後先考えずひたすら突っ走ってきたあの勢いが突然どこかへと逃げ出してしまったかのように思えた。
「でもね・・・あなたなら・・・あるいは弟子になれるかもしれないは・・・」
修一は再び春先生の言葉を思い出した。
自信を持て・・・そう自分に言い聞かせた。
修一は、恐るおそる家の方へと近づいていき
「あの・・・どなたか・・・いらっしゃいますか?」
と聞いてみたが、今にも消えそうな小声になってしまった。
そして、その住居正面にあった引き戸のようなものを叩いてみた。というのもその家にはチャイムや呼び鈴らしきものが一切見当たらなかったからだ。
表札らしきものも一切かかっていなさそうだったので、本当に人がいるのかどうかさえ不明だった。
「あの!すみません!」
少しだけ声を大きくしてみた。
しかし、一向に返事は来なかった。
その引き戸はものすごく古く、まるで昭和の時代にタイムスリップしたかのような雰囲気だった。アニメで言えば「サザエさん」くらいしか修一は連想できなかった。
あたりはシーンとしていて、肌寒い夜風だけが修一の頬をビュンビュンと容赦なく攻撃してきた。引き戸の横に小さな窓のようなものを見つけたのでそこから少し中の様子を覗こうとしたが、近づいてみたらすでに雨戸らしきものが閉まっていて中の様子はうかがいたくても無理そうだった。
修一は「ふー」っと大きく息を吸い込んだあとに「はー」と吸い込んだ分以上に大量の空気を夜風に向かって吐いた。
「あの!すみません・・・夜分に失礼します!私、形見修一と申します!廬山・・・片山廬山先生に一目お会いしたく東京からはるばる来ました!」
さきほどとは比べ物にならないくらい大きな声を出してみた。今までの修一の人生の中で史上最大の声をありったけに吐き出してみた。しかし、勇気を出してみたものの一向に返事はない。
「あの!先生がこちらにいらっしゃると伺ったのですが!」
しかし、返事はない。
「あの!どなたかいらっしゃいますか!」
修一がそう言うと、途端に引き戸の向こうから人影のようなものが現れた。
「誰だ!」
誰かが向こう側から叫んで来た。
やはり人がいる・・・修一はそう思った。
そして、初めて反応があったことで修一は思わず歓喜して叫びそうになった。
「あの・・・私、形見修一と申します。」
あらためてもう一度名を名乗ってみた。
「誰だ・・・知らんな。」
その人影はそういった。
「どうやってここの居場所を知った?」
人影は向こう側から修一に聞いてきた。
「緑川春先生という方から片山廬山先生がこちらにお住まいだと聞きましたので・・・」
人影は急にピリピリし出したのか
「緑川?誰だ・・・業界界隈のもんか?」
そう言ってきた。緑川春先生のことを知らないのだろうか?彼女は廬山先生と一度仕事をしたことがあると言っていたのに・・・
それにしても業界界隈とはガラス工芸の業界のことなのだろうか?
「そうです・・・緑川春先生にわたくしはガラス工芸を学んでおりました。彼女からあなたのお住まいの場所を聞きました。」
そう言うと人影はまたピリピリと怒り出したような口調になった。
「誰だか知らんが、俺は自分の居場所など誰にも教えたつもりはない。帰れ!」
相当何か頭にきているようだった。しかし、話が通じているということはこの人影はどうやら片山廬山本人であることは間違いないようだった。
「お願いします!是非、お話だけでも聞いていただけませんか?」
修一は力いっぱいそう懇願してみた。
「話すことなどない・・・こんな夜遅くに一体何の用だ?」
まだ不機嫌な様子だった。
「あの・・・是非あなたの弟子になりたいと思って東京からはるばるやって参りました!」
片山廬山の弟子にしてもらう・・・夜行バスを乗った瞬間から修一は四六時中そのことし考えておらず、東京からたったその一言その想いだけを伝えるためだけに遠路はるばるやってきたのだった。だから、今までずっと長いこと伝えたくても伝えられない想いがもう口からすべてこぼれるかのようにすべて吐き出してしまった。
「何?弟子だと・・・?ふざけてるのか・・・帰れ!」
修一の言い方が気に食わなかったのか・・・はたまた弟子にしてほしいと厚顔無恥にも言ったことが癇に障ったのか分からないがいきなり「帰れ」と一蹴されそうになった。修一はそのとてつもなく大きな声で罵倒されるかのようにそう言われたので、足が少しだけガクガクと震えそうになった。
そして、その人影はまたその場を離れ家の奥へと帰って行こうとした。
修一は、ここまで来て引き返すわけにはいかなかったので最後の覚悟を決めた。恐ろしく怖かったがもう一度引き戸の向こう側へ叫んでみた。すでに人影は見えなかったので届くがどうかは分からなかったがひたすら叫んだ。
「緑川先生に・・・あなたなら片山廬山の弟子になれるかもしれないと言われました!だから・・・私はあなたに会いにきました!」
そう最後の望みをかけて叫んでみたもののすでに引き戸の奥は物音ひとつしないほど静まりかえっていた。手遅れだったか・・・修一はその場でうなだれるかのように倒れ込んでしまった。はるばる東京から来たのに・・・すべてを投げうってでも弟子にしてもらおうと覚悟を決めてきたのに・・・そして、しばらく修一は何をするでもなくその場で身動きひとつすることなく静けさの中に身を伏せていた。何分そこに留まっていただろうか・・・修一はこの世の儚さについて考えていた。人生とはこのようなものだ・・・すべては自分次第で切り開けるなどとは大嘘だ・・・万事うまくいくなどあり得ない。いくら努力してもうまくいかないときはうまくいかない。必死の心の声も届かなければ想いは伝わらないこともある。そう・・・人生とは思い通りにはならない。
修一は諦めて東京にもう帰ろう・・・と思った。そして立ち上がろうとするとその瞬間引き戸のドアが突然開いた。
「ガラガラ・・・ドン!」
あまりにすごい勢いで開いたので大きな音が修一の耳元で響いた。
そこには人が立っていた。背丈はあまり大きくはないが体格はよく年齢は中年くらいの男性に見えた。なにやら緑色のとび職の作業着なのかよく分からないものを着ていて、白髪だらけで髪はもみ上げからあごひげまでボーボーとのびていた。その姿はある種、忍びのようにも感じられた。
「お前・・・名前はなんていう・・・」
その男はそういった。
「あ・・・」
修一は初めて片山廬山らしき人物をこの目で見れたことの驚きのあまり言葉がでなかった。すべてを投げうって、会いに来たその憧れの巨匠が今修一の目の前にいた。
「か・・・形見・・・修一・・・です」
思わず声がうわずってしまった。まだその場でふさぎ込んでいたので下から片山廬山らしき人物の顔を覗き込みながらそう答えた。しばらく、その男は修一の顔をまじまじと眺めていたがやがてこういった。
「今日はもう遅いから帰れ・・・」
突然、そういった。何のことだか修一には意味が分からなかった。
話を聞いてくれるつもりだから引き戸のドアを開けたのではなかったのか・・・?
「あの・・・それはどういうことですか?」
修一は思わずそう聞いてしまった。
「それは・・・自分で考えることだ。」
そう言ってその男は再び引き戸を勢いよくバンと閉めてしまった。そして、またもや家の奥へと戻っていった。
「あの・・・」
修一はその場にひとり取り残されてしまった。
民宿に辿りついたときにはすでにすっかり夜中に近い時間になってしまっていた。あれからどこをどのようにして帰ってきたのか記憶すらないほどだった。田舎の路線なので平日昼間でも三十分に一本くらいしか通らないような辺鄙なところで、さらにかなり夜遅くにになってしまったため電車がほとんど来なかったし、さらに修一は片山廬山に初めて会えた驚きと感動と興奮とそして、最後に言われた言葉の意味が分からなかったことでそのことについてずーと考えこんでいたため一つ降りる駅を間違えてしまったりと・・・そんなこんなで、民宿に辿りついた頃にはもうほとんどの宿泊客は眠りについていた。
民宿の経営者はもう夕飯の時間帯は過ぎているのに仲居に頼んでわざわざ修一に夕飯を部屋へもってきてくれたので、お腹がペコペコにすいていたことなど忘れてしまったのを思い出して夢中で食事を食べた。納豆ご飯とサバの塩焼きとおしんこや、おひたし、沢庵と、サラダとみそ汁と茶碗蒸しのセットのようなものだった。いかにも民宿らしい料理だった。簡単にデザートに杏仁豆腐のようなものもセットでついていた。部屋でそれらを食べ終わった後に修一はくたくたに疲れた体で、仲居さんが畳の上に敷いてくれたふとんにくるまって眠りこんだ。本当は、民宿には小さな銭湯があったそうだが、くたくたに疲れ切っていたので入る気力もないのでそのまま眠りについてしまった。
翌朝、修一は再び民宿で朝ご飯を食べ終えた後に片山廬山宅を再び訪れた。眠る前に考えたことは「今日は、もう遅いから帰れ」というあの言葉の意味だった。あの時あの言葉の意味は修一にはさっぱりだったが、もしかしてあれは「違う日にちにまた出直してこい。」という意味にも捉えられたからだ。だから、修一はそう解釈して再びかすかな希望を持つことにしたのだった。
しかし、その希望はまた再び不安となった。今度は午前の朝の時間から、昨夜と同じようにひたすらドアを叩いて同じように自分の想いをありったけ大声で叫んでみたが、何時間たっても廬山は現れなかった。それどころか、昨夜のように引き戸の向こう側に人影が映る気配すらなかった。修一はおかしいと思いながらも何度もお願いした。途中でお腹がすいてしまったので、今朝がた民宿の近くの売店で買い込んで持ってきたおにぎりやら菓子パンやらを家の前で食べたり休憩もはさみつつ、そして何度も挑戦した。そして、その日はついに夜の時間帯になってしまったので、また明日来ようと思った。
胸の内にかすかな希望があるうちは絶対に諦めたくはなかった。
しかし、修一の期待とは裏腹にその次の日も次の日も同じだった・・・
一日中家の前に張り付くようにしていたが、廬山が出てくる気配など一向になかった。
それにしても、片山廬山は家から一日中出ずに一体何をしているのだろう?とさえ思えた。
家でする仕事なのだとしても買い出しに出かけたり、外に散歩したり出歩いたりなどすることもないのだろうか?
しかし、そんな修一の疑問などどうでもいいかのように片山廬山邸の引き戸の向こう側は静けさで充満していた。
その日は民宿の夕飯の時刻通りに修一は帰って来た。どうやら18時30分から21時がその民宿の夕飯の時間というルールになっているようだった。夕飯のサバの味噌煮やブリ大根や厚揚げなどを食べていたら、民宿の経営者のような方が話しかけてきた。
「お客さんいつも夜遅くまで出かけてらっしゃるから時間通りに食べられてよかったですね。」
修一にそう話しかけてきた。
「いえ・・・すみません、いつも部屋まで持ってきていただいてしまって・・・」
修一はとっさに謝ってしまった。
「いえ・・・そんな嫌味で言ったのではありません。出来立ての方がおいしいですから・・・ここらへんは海の幸がとても新鮮ですから。」
「はあ・・・そうなんですか・・・」
自分が何だか責められているような気がしたから、そういう意味でいったのか・・・と思った
「それにしても、珍しいですよね・・・こんな時期に若い男性の方がこんな場所におひとりだなんて。一人旅ですか?」
民宿の人はそう聞いてきた。
「ええ・・・まあ・・・」
「ここらへんは乗覚寺っていうそこそこ有名なお寺がありますけど、それ以外は特に観光スポットらしきものも特にありませんしね・・・昔はバブルの頃はゴルフ接待とか社員旅行とかで温泉に来る客が大勢いらっしゃいましたけど、近頃はほとんどいませんので・・・」
「そうなんですね・・・」
そういえば、今まで気づかなかったが夕飯の時間帯だというのに席はほとんど埋まっておらず客足はまばらのようだった。
「最近の若い人たちは、平日に有休休暇などをとって日帰り温泉がメインのようですからね・・・」
「はあ・・・」
「ですから、こんな時期に若い人がおひとりで来るなんて珍しいので嬉しいですよ。いつまでいらっしゃるか分からないですが、ごゆっくりしてってくださいね。」
そう言って民宿の方は頭を下げてから厨房か台所と思われるところへ入っていった。
次の日は朝から曇りだった。
そして、また修一はドアの前に立ってひたすら叫び続けた。何度も何度も・・・
はたからみたらバカみたいに見えるかもしれないけど、修一にとってこれは人生をかけた一大イベントであり闘争そのものだった。
そして、この日は夕方頃からついに雲行きがあやしくなりついには雨が降りだしてきた。
ザーザーと雨の音がなりだした。しかし、そんなことはおかまいなしに、修一は呆れるほど繰り返し叫び続けた。そして、またとうとう夜になった。
修一はここまで来て引き下がるわけにはいかなかった。持ってきた金もだいぶ底をついてきたのでせいぜい泊まれてもあと一日程度だった。銀行から預金をおろしたりすればまだだいぶ泊りはできただろうけど、そんなことをしたらいつまでもずるずると先に延ばして長引いてしまいそうだった。また東京に戻ってしばらく働いて貯金をためてから出直すことも考えられたけど、そんなことしたら決心が鈍ってしまうだろうと思った。
修一はついに最後の賭けに出るしかないと思った。といっても何をどうすればいいのかは分からなかった。いっそ降り止まない雨の中でひたすら考えれば何かを思いつくかもしれないとでも思った。
そして、ドアから離れてしばらく雨に打たれていた。
「あの・・・廬山先生の東京の展示会を見たんです!あの日・・・私はすべてに絶望しておりました。何もかも・・・人生も何もかもうまくいかず、ただひたすら死にたいと思っていた。そして・・・そして、あなたの作品に出会いました!すべてが美しかった。この世のものとは思えないほど美しかった・・・そして・・・そして、私はいつしかその作品の虜になりました。この世のものとは思えないあの光景を・・・まだ、自分には無理かもしれないけど、いつしかあの美しい光景を自分で再現したいんです!だから・・・どうか・・・最後に話をもう一度聞いてください!」
いつの間にか修一は一心不乱にそう叫んでいた。
「私は明日帰ります。だから・・・最後にこれだけはいいたいんです。だってそうじゃなきゃ・・・心残りになるから。人生に後悔だけはしたくないんです。」
修一はまだ激しく降り続ける雨に頭のてっぺんから滝の苦行のように打たれていた。
そして深呼吸をして、空の上を見た。空は曇っていたが、激しい雨が目を容赦くなく攻撃してくるのでほとんど見えなかった。そして、目をつむった。そこには何も光はなく、ただ修一の頭の中の世界だけが広がっていた。そして、こう叫んだ。
「私は・・・わたしは、第二の片山廬山になります!」
そう言い放ち、修一はしばらくまた上を向きながら雨に打たれていた。
すると、引き戸が少しずつ音をたてながらゴロゴロと開き始めた。
ドアの前の男はあたりを見回したが、そこにはもう人はいなかった。
「帰ったか・・・」
残念そうにそう言った。そして、再び引き戸を閉めようとしたらすぐ後ろに人の気配がした。慌てて振り返ると、そこにはとっくに帰ったと思っていた修一が立っていた。男は驚いたが、その執念に圧倒されたのかこう言った。
「入れ・・・」