サレジオの器

ーある日、美のタカラモノと出会ったー 

18.サレジオの器

 

修一が片山廬山の元を訪れてからすでに二年あまりの月日が立っていた。
修一はすでに30になっていた。あれから修一はすでに廬山が認めるほどの逸材となっていた。まだ粗削りなところはあるが、廬山いわくすでに教えられるものはすべて教えたといった。つまり、廬山本人もこれ以上は修一に弟子でいてもらう必要ないと言った。
「これから先はお前次第だ。お前がどうしたいかはお前が決めろ」
 廬山はそう言った。相変わらず師匠の言葉は深みがあるがあまりに簡潔過ぎるため、それはどういうことなのか修一はいちいち自分なりに解釈しなければいけなかった。だが、今思えば、それも廬山流の修行なのだろうとも思えた。廬山に修業を受け始めたばかりのあの頃はそんな師匠の意図することなどさっぱりだったが、毎日この変わり者の巨匠と行動を共にするうちに次第に分かってきたことだった。そして、今回もまたもや自分で考えなけてはいけないことなのだったが、つまり「これ以上廬山の弟子でいても一生、一弟子のままで終わるがお前はそれでいいのか?」という意味なのだろう。だから、これからは修一が自分がどうするべきかは自身で決めることだと・・・もちろん、修一自身がそれでいいのならそれに越したことはないが、廬山は「世間からさらに名声を得るために自分の自慢の一番弟子がほしい」などといった私利私欲に凝り固まった動機は嫌ったし、そもそも彼は地位や名声や金といったものに驚くほど興味がなかった。なぜ、彼がこんな辺鄙な山奥の麓に一人で住んでいて、世間と隔絶した生活を送っているのか気になって一度だけ機嫌を損ねない程度に囲炉裏を囲んだあのお決まりの夕食会の時にさりげなく聞いたのだが、彼はその話題が好きではないのかあまり多くは語らなかったのでその「秘密」は謎のままだった。しかし、たった一度だけそれとなく本音をもらしたことがあった。
「地位や名声や欲望に凝り固まった世間にうんざりした」
と言っていた。彼曰く、何やら金や利益ばかりに囚われてアートの世界が汚れているとのことだった。それが彼にとっては赦せないことで「芸術に対する冒涜」だと言っていた。
10年以上前・・・何やら芸術の最大の祭典である万国博覧会に片山廬山は出展することになっていたそうだが、万博の主催者や企業やスポンサーと意見が合わなくなり、大喧嘩をしたことがあったそうだ。「自分の作品のテーマに合わせなければ出展を辞退する」と啖呵を切ってしまったため、多くのスポンサー企業を怒らせることとなってしまったそうだ。そして、廬山先生は段々と敵が増えていったそうで、そのことがマスコミ界などにも広がっていき次第に彼を酷評する評論家もたくさん現れ始めた。その時は若手の天才ガラス陶芸家の林流星というものが頭角を現し始めた頃で、スポンサー企業は彼を応援した方が世間のイメージアップにつながるとのことで、こぞって彼の方を支援し出してメディアに露出させる方向に転換していき、今まで散々巨匠と持ち上げてきたメディアは廬山をテレビ業界から干して彼をことごろくこき下ろす評論家ばかりをテレビに出演させるようになっていったそうだ。
廬山はそのことがきっかけで「金や欲望にまみれた世間が嫌になった」そうだった。
廬山はたった一度その話をしただけで、それ以上その話題に触れることを嫌ったため、修一は聞くにきけなくなってしまった。しかし、修一にとってはそんなことはどうでもよくもあった。ただ、修一はそんな不器用ではあるけど自分の信念を曲げない廬山を心から尊敬した。
「今は分からないですけど、当分は先生の下でまだまだ学びたいと思います。」
 修一はそう言った。そしてそれが本心だった。何よりもまだまだ廬山から学び足りていないことも山ほどあった気がしたし、廬山が言うように「お前はもう一人立ちできる」と言われても何をいったいどこから始めればいいのかも分からなかった。ひたすら廬山の下で修業ばかりに励んでいたため、実際のプロ活動と言われる創作活動および世間へアピールすべく個展の開催や営業活動、などといったものはほとんどしてこなかったのだ。
 そんなこんなで廬山は修一の心理を察したのかまでは分からなかったが、ある日
「今度久しぶりに京都で俺の個展を開くことになったんだ。お前も一番弟子として初出展してみるか?」
 そんな提案をしてきた。「まあ、一番弟子と言っても最初で最後になるだろうがな・・・」
とその後に付け足したりもしていた・・・
修一にとっては廬山の下でのプロとしての初仕事だった。
「もちろんです!喜んで引き受けさせていただきます。」
 修一にとっては断る理由もないほど素晴らしい出来事だった。これで晴れて自分はガラス工芸家としてのデビューすることとなった。夢がかなったとおもった。しかも、その初仕事が片山廬山の弟子としての作品展示となるとこの上ない喜びだった。
「でも、先生は弟子を取ることなどいままでなかったので、いきなり弟子の作品を展示させたら世間が騒いだりしませんか?」
 修一にとってはそのことが何気に気がかりでもあった。
「は・・・?世間?そんなものはどうでもいいね・・・」
 廬山先生は鼻で笑うようにそうきっぱりと言った。どうやら世間という言葉がよほど嫌いらしい。
「そもそも、俺は世間から隔絶されたんだ。世間やマスコミにも大いに嫌われている。騒ぐなら大いに騒いで結構。しかし、恐らくそうならないだろう。」
 しかし、彼曰くそれでもいまだに自分を慕ってくれている業界関係者や、支持者やスポンサーはたくさん残っているから大丈夫だと言っていた。廬山先生の話だと、彼らは自分がまだ巨匠になる前の売れっ子になる遥か前の古くからの仕事仲間や旧友関係者がほとんだそうだ。昔東京にいた頃に片山廬山事務所というプロダクションがあったそうだが、そこの仕事仲間や関係者も多いそうだ。そのつながりがある限り、彼は仕事がなくならないそうだ。
「それはさておき、お前は一体何を出展するのだ?」
と聞いてきた。それは修一にとっては定かではなかったので「まだ、分からない」といった。
「分からないじゃ困るが、あと三か月ほどしかないからそれまでに創りなさい」と廬山に念を押すようにそう言われた。

それ以来、修一は作業に取り掛かり創作活動に専念する日々が続いた。自分の中で創りたいものはある程度決まっていた。そう・・・それは、二年前のあの日、廬山先生に問われて囲炉裏の部屋で一晩中考えて辿りついた答えだった。フランシスコ・サレジオのような出会った人が「自分は大切にされている」と感じるような、そんな人に寄り添える作品だった。そして、それはその作品を通して肌で感じられるようなものでなければならなかった。
そして、片山廬山の京都での個展の開催が近づくにつれ、廬山の思惑とは違いある週刊誌が片山廬山の一番弟子について大々的に記事に取り上げてしまったのだった。例の喧嘩の件以来、最近では片山廬山はまったくマスコミに取り上げられることもなかったが、今まで一度も取ることもなかった弟子を引き連れて初めて個展を開催するとなれば世間も多いに注目してくれるだろう、という狙いもあったのかもしれない。少なくとも廬山はそう感じていたようだった。
「これだから、世間というのは・・・」
またもや廬山は世間にいら立っていた。
「いいか・・・お前は世間に惑わされるな。世間に惑わされると作品に雑念が入る。お前はお前の信じるように制作に専念しろ。」
 廬山先生はそう諭すように修一に言ってきた。

しかし、そのマスコミに取り上げられたことが、幸か不幸なのか両親に知られてしまったようだった。そして、家を飛び出した挙句、二年間もの間今までずっと連絡を拒絶してきたその父親から自分の携帯に久しぶりに連絡があった。といっても電話は取りづらいから着信があっても放置していたのだが、LINEを見たらある文章が書いてあった。
「修一へ
 お元気ですか?
あれから二年もたちましたが、修一の安否を知れて安心しました。
修一が家を飛び出してから、色々と何度も電話をしたり連絡を取ってみたものの一切返答がなかったので、いっそのこと警察に届け出ようと思いましたが思いとどまりました。というのも、あの日、修一が片山廬山の弟子になるという書置きを残していったのに気づき私は母さんとそれを一緒に読んみました。最初はあまりに現実離れした話だと思い信じられなかったのですが、修一が通っていた教室の緑川春先生の元を二人で訪れて考えが変わりました。彼女はひたすら修一のことを応援してくださっていたようで「彼なら必ず第二の片山廬山」になるとしきりに褒めてくださったのです。その言葉を私と母さんは信じて、今の今まで修一のことを私たちなりにずっと応援してきたつもりです。修一がどう思っているか知らないが、少なくとも今の私たちはそのような想いです。片山廬山先生の京都での個展に出展させていただくそうだが、くれぐれも粗相のないように大いに頑張ってください。」
LINEの文章はひとまずそこで終わっていた。しかし、気づいたらその後に続きがあった。
「追伸
そういえば、修一はもう忘れてしまっているのかもしれないが、琴さんはいまだにお前のことを待っているそうだ。3年も前のことだから覚えているか分からないが、あれから琴さんは実家を出てしばらく友人宅を転々としていて病院で出産もしてしばらく一人で育てていたそうだが、そんな生活もかなり無理があったので仕方なくまた実家に帰っていたそうだ。水川さんとはだいぶもめてしばらく親子で口も聞かなかったそうだが、二年前に私たちが緑川春先生から聞いた話や、修一が片山廬山の下で修業をしている話をしたら、琴さんは修一のことを待っているといったそうで、それで水川さんも修一のことを信用することに決めて二人でお前のことを応援してくださっていたんだ。まあ、あれから色々あってごたごたしていたし、お前と琴さんのこともあって私も中々水川さんとは連絡が取りづらくなっていたから、こういった一連の流れを知ったのは二年くらい前のその時なんだ。これは、お前だけのせいではないから私たちも責められないが、お前がこのことを知らないままだと彼女は不幸になると思い改めて連絡しました。修一も修一で大変だっただろうけど、彼女も色々と大変だったんだ。だから、これ以上彼女を不幸にすることは無責任だと思う。だから今までのように連絡せずに逃げてばかりではなく、琴さんとも向き合う努力をした方がいい。解雇した手前、水川さんも修一のことは中々責められないと言っていたし、お前が自分でこれからは積極的に連絡を取るべきことだと思う。琴さんも自分から家を出て行ってしまったので、修一とは連絡が取りづらいとも言っていた。だから、お前の方から琴さんに連絡を取るのが一番いいのだと思う。それが今のお前が責任を取る唯一の方法なんじゃないか?
何よりもお前の人生なのだからな・・・」
 そこで父のLINEの文章は終わっていた。
言葉もなかった。自分は今まで先を突っ走ってばかりで、あまりにも多くの人を不幸にしてしまっていた。なんて自分は無責任なんだと思った。こんな無責任でダメな自分のことを琴はまだ待っていてくれてるなんて・・・あの、琴がアパートを出て行った3年前に僕はどこかが腑抜けになっていていつも自分のことばかり考えていた。しかし、それでも琴のことが心配だったので、一年間くらいは時々電話をしたりLINEで連絡をしてみたりもしたのだった。しかし、一向に返事がなかったので、琴は自分のことなどとうに忘れてしまっていたのだと思っていた。だからもう自分の中ではすっかり諦めていた。しかし、琴は自分のこと密かにずっと応援してくれていた。そんなこともつゆ知らず、ただひたすら自分のことばかり考えてきたことが情けなくなった。そして、父もそんな自分のことを心配して密かに連絡を取り合ってくれていた。そして、家出をした後も度々連絡をしていてくれていたのに一切自分は無視していた。そして、LINEのメールにははっきりとは書いてはいなかったが、緑川先生から自分が廬山先生の下で修業をしている話を聞いてから、邪魔しないように密かに見守ってくれていたのだった。
 すべてが情けなくて泣きそうになった。しかし、今更どういえばいいのかも分からなかった。あれからもう3年もたってしまっているのだった。何もかもがあの時とは事情が違う。何をどう言えばいいのだ?でも・・・琴は待っていてくれてるんだ。そう思ったら連絡を取らないわけにはいかなかった。父の言う通りそれが自分なりの責任を取る方法なのだった。
「琴へ
久しぶり。
何ていったらいいのかもう分からないけど・・・君が元気でいてくれてよかった。父さんから話を聞いて、あれからあった色々なことや、琴や水川さんに遭ったことやそれらのことを全部知って・・・自分が情けなくなりました。それでも、琴が・・・そんなどうしようもない自分を応援してくれているなんて考えてもみなかった。だから、正直これから自分はいったいどうすればいいのだろうか・・・ふとそんなことを思ったりもします。琴に聞きます・・・僕はどうすればいい・・・?」
 自分はそう琴のLINEに文章を送った。本当は手紙を書いた方がいいのだろうと思ったけど、今すぐにでも連絡したくなったのだった。しばらく何も反応はなかったが、数日たった頃に琴から返事が来た。実に3年振りの会話のやり取りだった。
「形見君へ
お元気ですか?
私もどうお返事をすればいいのか迷ってしまい・・・思わず書く内容を考えていたら気づいたら数日たってしまいました。形見くんは色々と自分のことを責めているようだけど、私も勝手に出ていってしまった身なので・・・。だからこれでおあいこってことだから、自分をそんなに責めないでね。形見君のお父さんから聞いて、ガラス陶芸の世界を目指しているなんて正直驚きましたが、私は応援してるよ。どんな形であれ・・・形見君が目標に向かって生きてる姿は私も勇気をもらえていました。実家暮らしとはいえ、正直子供もまだ小さいから絶えず泣きわめくし大変なことだらけだけだけど、そんな中ひらすらどうなるかも分からない夢を追う形見君には励まされました。普通の奥さんだったら怒るのかもしれないけど、私は多分そんなひたむきな形見君に惹かれたのだから・・・だからこれはこれで仕方ないのだと思う。子供だってお父さんに中絶するように言われたのに自分の意思で生んだわけだし・・・だから、形見君が背負うものなんてなにもないよ。私は大変ではあるけど、実家暮らしだからそれなりに充実してるよ。娘ももう二歳になるから少しずつしゃべれるようになったし、毎日の成長を見ているだけで楽しいものだよ。そうだ・・・形見君が以前LINEで送ってくれた名前つけたんだよ。だから、形見線って名前にしたよ。娘の写真も添付するね・・・」
 琴からの手紙はそのような内容だった。3年振りなのに、まるでつい最近まで一緒に暮らしてたかのようなあまり変わらない感じだったからひたすら安心した。そして、その安心感からほっとしたのか思わず急に涙が出てきた。そして、だいぶ前に送ったあのLINEの内容を実は読んでいてくれたのだった。女の子の名前はパパの宿題と言われたあの日からひたすら名前を考えたが、修一にはそういったセンスがないらしく一向に思いつかなかったので感覚的に考え付いたものだった。それは、琴と出会ったことが修一にとってはあまりにも感動的で琴線に触れるような出来事だった・・・という思い出からつけた内容だった。そして、そのようなことをLINEで書いて密かに送っていたのだった。
 修一は琴からもらったLINEに添付された自分の娘の写真を初めてみた。若干修一似だと思ったが、その顔はまるでこの世に生命を授かったばかりの天使のようだった。


 そして、京都での片山廬山の個展がついに開催された。
「日本美と廬山の世界~自然と芸術の調和と進歩~」といういかにも巨匠らしき荘厳で雄大なタイトルだった。今回は、廬山の初弟子を迎えての共同出展ということで、サブタイトル「廬山の愛弟子の解き放つ魂の生命の世界」と書き加えられていた。それを見て、修一はいささか恥ずかしくもあったが、それと同時に誇らしくもなった。
「修一さん、パンフレットの件ですけど・・・廬山先生の横に初弟子としてプロフィールを載せましょう。」
 そう言ってきたのは、今はもう団体の存在そのものがなくなっている片山廬山事務所の元所長である屋久(やく)さんという方だった。先生が以前修一に少しだけ密かに話したことのある、元プロダクションの関係者の方だ。彼は元々事務所の所長として、他の事務員と一緒に廬山の活動を長年支えてきた人物でもあった。しかし、廬山が引退する旨を宣言して田舎へ突然隠居しようと言い出したので事務所は一時解散したそうだが、多くの業界関係者が廬山の引退を惜しんだため、旧事務所のメンバーで非公式ではあるが団体を立ち上げて密かに先生の活動を支援し続けているそうだ。
「いやー修一さん・・・あなたの作品は実に壮大で素晴らしいよ。廬山先生が気に入るわけだ。」
 会場で初めて会ってしばらく話していたら、屋久さんは修一にそう言ってきた。
まわりは片山廬山先生の作品がたくさん展示されていて、僕らはそれに囲まれていた。
「そんな・・・先生から色々と教わったことをしたまでですよ・・・」
 修一は照れながらも謙虚にそう言った。しかし、それが本音だったのも事実だった。
「いやーご謙遜を。あなたの作品は一見、廬山流の流れを汲んだようになっていると思わるけど、それを自分流にうまく昇華させている。実に素晴らしい。廬山先生が才能を見抜くわけですよ。」
 修一は実際にはそんな風に意識はしていなかったが、知らず知らずのうちに自分の創りたいものを追求していたのかもしれないと思った。しかし、それは廬山が「自分にしか創れないものを創れ」と言われたからに他ならなかった。そして、その想いがなければどんな作品もガラクタになるのだと。
「10年前に・・・廬山先生にあんなことがあって、私どもはじつはさみしい想いをしていたんです。内心では応援しながらも、どこか世間から離れる様に隠居してしまわれた廬山先生の姿に・・・我々はみなずっと不安の感情を抱えていました。」
 屋久さんは会場の遠くの方を見つめるかのようにそう言った。
屋久さんや皆さんは・・・廬山先生のことをとても好きなのですね?」
 屋久さんの気持ちが痛いほど分かってしまったので、修一が思わず正直に自分の気持ちを言ってしまった。
「そりゃそうですとも・・・私もこの道ずっと長いですからね・・・彼ほどの素晴らしい才能のある人にはいまだに出会えたことがない。」
 屋久さんはそう言いながらしばらくまた会場の遠くを見つめていたが、やがて続けて過去の話をし始めた。
「私もね・・・若い頃は芸術家のはしくれだったんですよ。でもね・・・お世辞にも素質があるとはいえなくて・・・それからしばらくは美術品の評論家や鑑定家などをしていたのですよ。そんな時にたまたまある仕事がきっかけで当時はまだ無名だった片山廬山の作品を見る機会がありましてね・・・もう目が点になりましたよ。もうこの世のものとは思えないほどのものと出会えたと・・・それまでの私の人生の中で一番の衝撃でした。あの時のことは今でも忘れません。何と言いますか・・・私の評論などただのまやかしの偽善だと見透かされているような気がしましてね・・・。それで、もうこれは彼についていくしかないと思って、事務所を立ち上げて彼の秘書やマネジャーの仕事を買って出ることにしたんですよ。」
 彼はとても興奮しているようで、修一が割って入れる隙もないほど夢中になって廬山の話をしていた。
「それでね・・・彼の身近にいるとますます彼の不思議な魅力に惹かれていった。最初はなぜ彼があれだけの魅力的な作品を作れるのかその謎に興味があったんです。それで、分かったんですよ。なぜか人にこびないところ、風変わりなところ、人一倍執念とこだわりがあること、そして何よりも曲がったことが嫌いで信念があるところ・・・そういうのってこの人間社会で生きてく上では邪魔者以外のなにものでもないですからね・・・そういった邪魔者をわざとのようにしょい込んでいる・・・そんな人だからこそ私のような凡才には創れない何かをいとも簡単に生み出せるんだって・・・」
 屋久さんは廬山先生については並々ならぬ情熱をもっているらしく多くを語った。
「あ・・・修一さん、ごめんねさいね・・・自分ばかり話してしまって・・・」
「いえ・・・そんなことは・・・」
 僕はフォローするかのようにそう返答した。
「でもね・・・君もどことなく廬山先生に似ているから・・・その、なんていうか寡黙なところだけじゃなくて、その・・・どこか生き様がね・・・。」
「生き様ですか・・・?」
 僕にはよく意味が分からなかった。
「だから、彼に後継者ができて本当によかった。先生もきっと喜んでおられるはずです。なにせ、やっと信じられる「仲間」ができたのですから・・・」
仲間・・・?弟子ではなくもう仲間なのか・・・
自分は今でもずっと廬山先生の弟子で、そしてこの先もずっとそうなのだと思っていたからだ。だからこそ屋久さんにそう言われて、修一は少し嬉しくもなった。
「これからも一緒に頑張っていきましょう!」
屋久さんはそう言って修一の手を力強く握ってきた。
「じゃあ・・・僕はこれから別件の仕事があるので・・・」
そう言って彼は会場を後にした。
 修一はその場でまた一人取り残されていた。京都の文化会館のホールのような場所を借り切った大きな展示会だったが、廬山の久しぶりの個展ということでかなりの客が観に来ているようだった。
 修一は一緒に住んでいたから普段も廬山の作品は間近で見ていたが、会場で見たのはこれで二度目だった。あの精神科の帰りにたまたま通りかかった時に偶然出会った富士百景の荘厳な景色・・・今思えばあの偶然の出来事がなかったら、今自分はここにはいなかっただろう。今こうして自分が立っていられるのはあの運命のお陰だった。
「ありがとうございます。」
修一は心の中で感謝した。

そして、修一は展示会の別ブースにある自分の作品の展示を見に行った。
あれから何か月ものあいだ全集中力を込めて作り上げた作品がそこにはあった。
フランシスコ・サレジオと教会のイメージをガラス絵にほどこした渾身の傑作だった。
それは、誰とでも平等に親切に接し、人の心に寄り添おうとするサレジオのイメージ図と彼を取り巻く神秘的ともいえる平和の世界観を描いた壮大なアートとなっていた。
そこには、修一の想いだけでなくすべての原点があった。
これが自分の描きたかったすべてなのだと・・・
まだ、この絵は無名であり、展示されている作品のタイトルも仮として書かれていたが、やがてこう呼ばれることになるだろう。
サレジオの器・・・と。