サレジオの器

ーある日、美のタカラモノと出会ったー 

7.愛の日々

 

気づいたら自分は彼女に簿記の勉強を教えるために、週末に時たま会うようになっていた。ある土曜は喫茶店だったり、その次の土曜は図書館だったり・・・都心の洒落たカフェで会ったこともあったが、勉強をするにはあまりもってこいの場所とは言い難かった。
「え・・・と、ここの計算はどうやるの?」
今日は、彼女の実家のある蒲田の駅前にあるゼクシオ―ルカフェで勉強会をしていた。
「えーと・・・そこは」
いつものように彼女に簿記の原価計算の方法を教えていた。どうやら固定費と変動費の計算方法について多少混同しているようだった。
「なるほど・・・分かりやすい!」
彼女は僕の拙い説明でも納得したようで満足気だった。
「形見くん、本当説明上手だよね・・・」
「そうかな・・・そんな風に思ったこと一度もなかったけど。」
「そうだ・・・会計士とか目指せばいいのに・・・うちなんかで働いてるだけじゃもったいないよ・・・」
彼女は大げさともとれるほどオーバーな表現で僕をしきりに褒めてきた。
「そんな・・・そんな風に褒められたこと一度もないよ・・・ありがとう。」
僕は嬉しくも恥ずかしもあり、飲みかけの砂糖とミルク入りのコーヒーを一口ほど飲んだ。
「多分、形見君のまわりが優秀過ぎたんだね。私は学生時代から落ちこぼれみたいなものだったから、こんな学校の先生みたいに教えられる人初めて・・・」
「そうかな・・・」
「もっと自信持ちなって・・・感動するよ」
そんな風に言われて次第に僕も悪い気がしなくなってきた。
別れた元カノの桜井穂乃花も優しいところはあったが、どこか割り切った性格でいちいち些細なことで感動するようなタイプではなかった。修一はあまり恋愛経験が豊富な方ではなかったのでよく分からなかったが、世の中には本当に色々な女性がいるのだとあらためて思った。
「じゃあ・・・今日はこのあたりで・・・」
そう言って彼女は簿記の教材やら経理の資料を自分のカバンに入れた。
「もういいの・・・?もうちょっとだけいいけど・・・」
僕がそう言うと
「いいのいいの・・・いつもつきあわせちゃって悪いし。」
「僕は、かまわないけど。どうせ暇だし。それに・・・楽しいし。」
そして、それが本音だった。いや・・・むしろ楽しいというより嬉しいというのが正直なところだった。こんな風にまた自分を必要としてくれる人がいるだけで嬉しかった。会社をクビになり彼女であった穂乃花にも振られて、もう自分は誰からも必要とされてないのかとずっと悩んでいた。それなのに、彼女はこんなダメな僕を必要としてくれている。そして、自分の悲しい心の中にポッカリあいた穴を彼女が埋めてくれそうな予感がした。
「嘘・・・彼女とか・・・いるかと思って・・・」
いきなり彼女がポツリとそう言ってきた。
いるかと思って・・・だった。いるかと思った・・・ではなく思って・・・
どことなく遠慮がちというか少し躊躇するような言い回しだった。
「いや・・・実は・・・ふられたんだ」
僕は思わず正直に答えてしまった。
そして、例の事件があった後に振られた話を少しだけ話した。
彼女は目を少しだけ細めたようにみえた。
「そう・・・なんだ・・・」
一瞬だけ間が空いた。
僕は少しだけそのことを思い出して下を向いてしまった。
「でもさ・・・あれだよね・・・その女の人もひどいよね。」
「ひどい・・・?」
僕はよく分からなくてそう聞き返した。
「そう・・・だってさ・・・事件があった後に振るって・・・つまり・・・何ていうか、そういうことじゃない?」
僕は彼女の意図することが何となくで分かってしまい、また少しだけショックをうけた。
「でも・・・あまり・・・気にしないで・・・ちょっとそう思っただけだから・・・」
「うん・・・別にいいよ・・・」
僕らは気まずくなって黙ってしまったので彼女は気になったのか
「そうだ・・・今度どこか行きましょうよ・・・二人で・・・」
「え・・・?」
突然の誘いに僕は戸惑ってしまった。
「行くって・・・どこに・・・?」
「どこにって・・・ひどいな・・・気分転換に遊びに行きましょうってこと。彼女さんのこと何か気にしてるようだったから、どこか気晴らしになるところに行った方がいいかなって・・・」
彼女はいきなりそんな提案をしてきた。僕は正直嬉しくもあった。
「それに、簿記の勉強を色々教えてもらったお礼もしたいし。私がおごらせていただきます。」
「いや・・・おごってもらうってそんな・・・」
「いやなの?」
彼女は少しふてくされたような顔つきになった。
いやではなかった・・・でも、正直僕は穂乃花に振られてから少しだけ恋愛不信というか愛というものが信じられなくなっていた。
「もう修一君はっきししないな・・・じゃあ・・・LINEで予定決まったら送るね・・・」
そう言って彼女は先に帰った。

 

 そんなこんなで彼女とは時たまデートのようなことをするようになった。まだ恋人になったわけでもないから、公認とは言えなかったから、ただ女友達と遊んでるというような感じもしなくはなかった。毎週というほどではなかったけど月に1、2回会うようになった。最初は水族館で・・・次第に映画やカラオケ、そして夕飯などまで一緒に食べるようになった。
 正直、僕はなぜ最初に彼女に誘われたのか分からなかった。考えたら生まれてこのかた誰かに好かれたりしたことなどなかった。中学生の時の思春期の初恋は、めでたく自分の片想いということで儚く散った悲しい子供のほろ苦い思い出として終わったし、高校の時は進学校に通っていたため、勉強に明け暮れていたのでほとんど恋愛どころではなかった。大学になってから初めてできた彼女である穂乃花も、お互いに好きになったというより友達に紹介してもらって何となくの流れで付き合っただけだった。だから、自分から好きになったわけでもなければ彼女に好きと言われたこともほとんどなかった・・・というか・・・そもそもその辺りの記憶が非常に曖昧で終止していた。
 だからこそ、こんな風に誘われて正直嬉しかった。そして、それが僕の人生に第二の潤いを与えてくれていた。
「形見君・・・こっちこっち・・・」
「うん、分かった。」
僕は水川琴と自分の分のポップコーンと飲み物を両手で持って、彼女が取っておいてくれた席に座った。
二人きりで映画館に来ていた。
「けっこう並んでた?」
「いや・・・そうでもないよ。でも、カップルや子供連れが多いね・・・」
「まあ・・・連休だからしょうがないよ」
GWというほどではなかったが三連休だったため映画館は満席に近かった。
ワイルドアットハート」という新作映画のラブコメで前々からテレビで頻繁に宣伝されていたので、この三連休にたくさんのカップルが待ってましたとばかりにこのラブストーリーを観に映画館に来たのだろう。

「映画楽しかったね」
映画の上映が終わると、彼女はそう一言だけ言い機嫌よくステップを踏むように映画館の廊下の先を歩いていった。そして、彼女は映画館の出口付近のホールまでくると急にくるっと回転するかのようにこっちを振り向いてきた。
「ね~どっか食べに行きたい。」
僕は幸せだった。こんな日々がずっと続けばいいのにと思った。

 

 気づいたら僕らはもう恋人のようになっていた。お互いに離れたくても離れられないくらいになっていた。仕事場でも会っているはずなのに、休日でも会いたいほどだった。そして、会うたびに斬新なわくわくするような予感がした。そして、彼女は言った。
「ねえ・・・覚えてる?初めて花壇の前でアジサイの話をした時?」
「うん・・・覚えてるよ・・・」
「その時に言った花言葉の話だけど・・・実は『辛抱強い愛情』って意味があって・・・これね・・・とある遠距離恋愛カップルの実話がもとになってるんだ。ドイツ人の男性医師「シーボルト」は日本で出会った「お滝さん」に恋するんだけど、なんと彼にスパイ容疑がかけられ国外追放になってしまうの。それで、彼はやむを得ずドイツに帰国した後、日本で採った紫陽花に「お滝さん」の名前から「オタクサ」と学名をつけて、それがアジサイの名前の由来になってて・・・離れていても思っているというお話から「辛抱強い愛」という花言葉がつけられました・・・」
彼女は熱心にその話をし出した。
「とても・・・ロマンチックな話だね・・・」
「それでね・・・私もね・・・学生時代に好きだった男の子がいたの。その子は幼馴染で本当に仲良かったんだけどね・・・でもね・・・ある日突然心臓発作でなくなってしまったの・・・だからね、私はその後もずっと彼の後姿を追っているような感じがして・・・」
急に悲しい話を彼女は打ち明けだした。
「彼のこと今でも・・・好きなの・・・?」
僕は無神経にもとっさに聞いてしまった。
「ううん・・・分からないけど・・・でも、このアジサイのストーリーを聞いてなんだか泣けてきたっていうか・・・それでこの花言葉が好きになったんだ。」
「辛抱強い愛情?」
「そう・・・私の恋は悲運で叶わなかったけど、こんな風に人を想えてたら例え叶わなくても人は幸せなのかなって・・・」
彼女はそう言うとはかなげな顔をして下を向いた。
僕はなんていったらいいのか分からなくなった。
そして、次第に彼女はか細い声で泣き出してしまった。
涙のしずくが目からこぼれているようにも見えたが彼女は下をうつむいたまま手で顔を覆っていたのではっきりとは分からなかった。
僕は黙っていたが、彼女は泣き止まなかった・・・
そして、僕は急にこう切り出してしまった。
「もう辛抱しなくていいよ・・・」
そう言うと彼女はこっちをちらっと見てきた。
「僕が君を幸せにするから」

 

そして、僕らはめでたく婚約した。
ちょうどあれから2年がたっていた。
僕らは27歳になっていた。
水川琴は形見琴になった。
その話を聞いて水川社長は大いに喜んでくれた。
「そうか、そうか・・・それはめでたいよ!」
彼はたちまち会社中にその噂を広めてしまいみんなも多いに喜んでくれた。
そして、まだ結婚式の日取りも決まってもいないというのに、会社が僕らの結婚をお祝いしてくれたりもした。
琴から以前聞いたことがあったけど、実は彼女のお父さんは僕を跡取りの後継者にと思って真剣に考えてくれていたそうだった。あるいは、跡取りとまではいかなくても将来は実質的な会社経営のパートナーになってくれればいいなとは考えてくれていたそうだった。
「お父さん、形見君にはすごい期待してるんだよ」
デートの時に彼女にそう言われた時は胸がバクバクするほど嬉しかった。
そして、僕らは晴れて結ばれることになりそれが実現するかのように思えた。
しかし、僕はまだその時は幸せの絶頂の中にいてこの先僕らに何が起きようとしているのかなど知る由もなかった・・・